大判例

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東京地方裁判所 昭和51年(ワ)7138号 判決

原告

岩瀬幸子

原告

坂本孟亮

右原告両名訴訟代理人

浅見東司

本間美那子

矢可部一甫

重国賀久

秋本英男

笠井治

吉田哲雄

宮下正俊

三吉譲

被告

右代表者法務大臣

住栄作

右指定代理人

高橋孝信

外七名

被告

佐野圭司

被告

吉益倫夫

被告

塚本泰

右被告四名訴訟代理人

青木康

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは、各自、原告岩瀬幸子に対し金三〇一八万円、原告坂本孟亮に対し金二四四三万円及びこれらに対する被告国については昭和五一年一一月一一日から、その余の被告らについては同年一〇月二三日から各支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  主文と同旨

(被告国のみ)

2  担保を条件とする仮執行免脱宣言

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

原告岩瀬幸子は亡坂本一仁(以下「一仁」という。)の母、原告坂本孟亮はその父である。

被告国は、東京大学医学部附属病院を設置・運営するものであり、昭和四四年一二月当時、被告佐野圭司は同病院脳神経外科(以下「東大脳外科」という。)科長として同科の診療業務を管理監督し後記本件手術の適応を決定したものであり、被告吉益倫夫、同塚本泰はいずれも同科に医師として勤務して本件手術を直接実施したものである(以下右被告三名を「被告医師ら」という。)。

2  本件手術の実施

一仁は、東大脳外科において、被告佐野の承認のもとで、被告吉益及び同塚本らにより昭和四四年一二月一一日、定位脳手術による左側視床内髄板破壊術(以下「第一回手術」という。)を、昭和四五年一月二〇日、定位脳手術による右側視床内髄板破壊術(以下「第二回手術」という。また、以上の二回の手術を以下「本件手術」という。)を受けた。

3  本件手術の結果

(一) 本件手術後の一仁の病状と経過は次のとおりである。

(1) 昭和四四年一二月一一日の第一回手術の後、抗痙攣剤の使用を強化したにもかかわらず一仁は同月一六日、二一日、二七日にそれぞれ大発作を起こした。

(2) 一仁は、同月三〇日、被告吉益の指示により一時退院したが、その際は手足がきかず、歩行はもとより、立ち上がること、食事、普通にしやべることができない状態となつていた。

(3) 昭和四五年一月二日、大発作を三回起こし、同月八日東大脳外科に入院した。

(4) 第二回手術後、失調症が悪化し、入院時にはなかつた筋運動低下や顕著な不随意運動が生じた。

(5) 原告岩瀬は、被告塚本から一仁の退院を勧告されたが入院治療の継続を希望して一度はこれを拒否したものの、結局、同年二月一五日に一仁を退院させた。

(6) 右退院時の一仁は、言葉を自分から発することができず、母親を呼ぶにも「あー」という声をあげるだけで、問いかけられてもろれつのまわらない短い言葉で答えられるだけであり、歩行障害がひどく、ベッドで寝たきりの状態となつたうえ、介助なしでは食事も不可能で、ほとんど失禁状態で自力による排便は不能であつた。

(7) その後、一仁は、歯肉増殖、舌根沈下等により食事の摂取も困難となり、衰弱していき、昭和五一年三月二一日、肺炎を併発して死亡した。

(二) 一仁の死亡の一因となつた全身衰弱は、本件手術により、視床内髄板又はその周囲の脳組織を破壊したことによる合併症、広汎な脳変化が起こつたこと、原疾患の進行が速められたこと、これらの結果により発作が頻発しそのため抗痙攣剤を多用しなければならなかつたこと、もしくは以上の競合によるものであり、本件手術の実施と一仁の死亡との間には因果関係がある。

4  本件手術の違法性

(一) 人体実験を目的とした手術であること

本件手術は、一仁のてんかん治療を目的としたものではなく、被告医師らの「全汎性てんかんは焦点発作が大脳全体へ全汎化したものであり、その全汎化には視床の非特殊核である視床内髄板が関与している。」との仮説に基づき、この仮説を臨床的に実証・実験する目的で実施されたもので、このことは次の事情から明らかである。

(1) 全汎性てんかんに対する定位脳手術による視床内髄板破壊術は、当時医学界でも治療方法としてその有効性・安全性が確立していない極めて危険な手術である。すなわち、全汎性てんかんの構造自体が、生理学的、病理学的に十分解明されていないし、てんかんに対する脳外科的手術は、脳の器質的損傷を原因とする症状性てんかんについては一部の専門家の論文で適応の可能性が指摘されているものの、定位脳手術は頑痛症、パーキンソン氏病に対して適応があるとされているのみで、てんかんに対する術例が少なく、東大脳外科においても本件手術以前に四例を経験しているにすぎず、全汎性てんかんに対する適応は未だ医学界の定説とはなつていない。しかも、破壊の対象となる視床内髄板は、病巣ではなく、健全な部位であるのに、その本来の機能については十分解明されておらず、破壊により本来的機能を喪失した場合の影響も明らかではない。

(2) 一仁が東大脳外科に受診したのは、東京大学医学部附属病院分院神経科(以下「分院」という。)の安永浩医師の紹介により脳腫瘍や血管異常などの器質的疾患の有無を検査するためであつたのに、被告佐野は、一仁に主要な検査が実施される以前の昭和四三年一一月二五日に定位脳手術適応と診断して本件手術の実施を決定しているが、てんかんに対する外科的手術は、薬物による発作の抑制が不能な場合にはじめてその可否を検討すべきであるのに、一仁の発作の回数・薬の効果・日常の生活状態等を右安永医師に照会することもせず、また東大脳外科自ら薬物療法を試みてその経過を観察する等の措置を一切行つていないし、分院に対しては検査の結果等について何ら報告がなされていない。

(3) 一仁に対し、昭和四四年一二月二日に実施されたラミナーアナリシスには約六時間、第一回手術には一〇時間以上、第二回手術には約六時間という、いずれも通常要する時間を著しく超える時間を要しているが、これは手術自体と関係のないデータ収集のためであり、また、被告吉益は本件手術直後に「定位脳手術よりみた視床内髄板の機能解剖」との論文を発表していることから、その間本件手術とは無関係の視床内髄板の機能解剖実験や刺激試験、誘発電位実験などが実施されたものと考えられる。

(二) 手術適応の判断の過誤

仮に本件手術が一仁の治療を目的としたものであるとしても、被告医師らは、一仁に定位脳手術の適応がなかつたにもかかわらず、本件手術を実施した。

(1) てんかんの治療については、原則として薬物療法によるべきであり、薬物療法が無効であることが確認されてはじめて定位脳手術の実施が考慮されるべきである。

(2) しかるところ、一仁が本件手術を受けるまでの経過は次のとおりである。

(ア) 一仁(昭和三三年六月五日生)は、昭和四一年二月ころから、ときおり不自然な強いまたたき、瞬間的に目を閉じるなどの小発作を起こすようになり、翌四二年一月ころから東京都立梅ケ丘病院に通院し抗痙攣剤の投与を受け始めたが、同年一一月二三日、第一回目の全身痙攣発作(以下「大発作」という。)を起こした。この後は抗痙攣剤の服用により大発作は抑制されていたが、翌四三年八月二九日、九月一八日に再び大発作を起こした。

(イ) 昭和四三年九月一九日、分院で安永浩医師の診察を受け、てんかんと診断された。同医師は、同月二一日、念のため東大脳外科に脳腫瘍、血管異常等の器質的疾患の有無の精密検査を依頼し、右器質的疾患のない場合は分院で治療を続けたいとして、一仁を紹介した。

(ウ) 昭和四三年九月二五日、東大脳外科で受診し脳波検査のため一時抗痙攣剤の服用を中止したところ、同月三〇日大発作を起こした。そして同年一一月二一日、検査のため東大脳外科に入院し、抗痙攣剤の服用を中止したところ、同月二三日に一回、二四日に二回の大発作を起こしたが、同年一二月三日、穿孔術による検査(ラミナーアナリシス)未了のまま退院した。

(エ) その後、一仁は分院で薬物療法を続け、小発作も少なくなり、症状は安定していたが、昭和四四年七月一九日と二一日、抗痙攣剤を服用しなかつたため、大発作を起こすこともあつた。しかし同年一一月ころには大発作は全くなくなり、小発作も激減し、症状も安定して日常生活には支障のない状態になつていた。

(オ) ところが、昭和四四年一一月二七日、東大脳外科から原告岩瀬に対し、即時に一仁を入院させるよう連絡があり、一仁は同日から同年一二月三〇日まで入院したが、その間同月一一日に第一回手術が実施され、さらに昭和四五年一月八日から同年二月一五日まで入院し、その間一月二〇日に第二回手術が実施された。

(3) 以上の経過のとおり、一仁は本件手術以前、抗痙攣剤の服用により日常生活に支障のない程度に発作は抑制されていたのであるから、本件手術を実施すべき緊急の必要性はなかつた。

(三) 方法の過誤

仮に一仁に本件手術の適応があつたとしても、被告吉益、同塚本は、本件手術の実施に際し、手術により破壊すべき部位を正確に認識し、必要にして充分な部位のみを破壊すべき注意義務があるのに、これを怠り、手術の目標部位以外の脳組織を破壊した。

すなわち、手術による破壊部位は、視床内髄板(側中心核及び正中中心核(CM核)とを総称した側板内核並びに付近の線維)の直径数ミリメートルの範囲に限定されるべきであるのに、本件手術では、左側において、内側枕核の三分の二、後外側核の二分の一、後外腹側核の三分の一、束労核の三分の一、正中中心核の全部、外側中心核の全部、中心労核の全部を、大きさ0.5×1.8×1.4センチメートルにわたり、右側において、内腹側核の二分の一、後内腹側核の三分の一、背内側核の二分の一、束労核の二分の一、正中中心核の二分の一、内側枕核の三分の一、中心旁核の全部、外側中心核の全部と上丘周辺の上部中脳に及ぶ範囲を、大きさ0.8×0.3×1.4センチメートルにわたり、それぞれ破壊し、さらに左側視床内髄板に出血を生じさせた。

(四) 同意の欠如

本件手術は、その危険性及び実験的性格からすれば、一仁の母親である原告岩瀬に対してその内容を十分に説明し、同意を得たうえで実施すべきであるのに、被告医師らは、右同意を得ることなく本件手術を実施した。

すなわち、原告岩瀬は、一仁が昭和四四年一一月二七日に入院する際、担当医である被告吉益とは面会せず、他の医師から前額部の数センチ上部に穴をあけて検査する旨の説明を受け、穿孔術による検査と信じてこれを承諾したのであり、さらに、一仁が昭和四五年一月八日に入院した際も、被告塚本から病状検査のため前記同様に頭蓋に開穴を施したい旨の申し入れがあつたので、必要最小限度の検査にとどめることを条件にこれを承諾したのであり、本件手術についての説明を受けたことは一切なく、これについて同意を与えたことはなかつた。

5  被告らの責任

被告吉益、同塚本は本件手術が右のとおり違法であることを知り、又は僅かの注意を払えば違法であることを知り得たにもかかわらずこれを知らずに本件手術を実施したのであるから、民法七〇九条、七一九条一項に基づき、被告佐野は右両被告の共同行為者又は代理監督者として同法七一九条又は七一五条二項に基づき、被告国は右被告三名の使用者として同法七一五条一項に基づきそれぞれ本件手術により原告らが蒙つた損害を賠償すべき責任を負う。

6  損害

(一) 一仁の損害

(1) 逸失利益 一一〇〇万円

一仁は、死亡時一七歳九か月の男子であつたが、一八歳から六七歳まで就労可能であり、その逸失利益は一一〇〇万円を超える。

(2) 慰藉料 一五〇〇万円

一仁は、本件手術を受ける前は一時的な発作を除いて極めて健康な男子であつたが、本件手術により3記載のとおり重大な後遺障害を受け、死亡するに至つたもので、これを慰藉するには一五〇〇万円を下らない。

(3) 附添費 六五〇万円

一仁は、昭和四五年二月一五日に退院した後、死亡に至るまでの七三か月間、附添看護を要する状態であり、右附添費を一か月当り九万円とすると、六五〇万円以上である。

(4) 右損害合計三二五〇万円は、一仁の死亡により、原告両名が二分の一ずつ相続した。

(二) 原告らの損害

原告岩瀬、同坂本は、子である一仁の死亡によつて著しい精神的苦痛を蒙つた。殊に原告岩瀬は、重症の後遺障害を受けた一仁に終始附添い、看病にあたつたもので、その苦痛は計り知れない程大である。これらを慰藉するには、原告岩瀬について一〇〇〇万円、原告坂本について五〇〇万円を下るものではない。

(三) 弁護士費用

原告らは、本訴の提起、追行を原告代理人らに委任し、手数料及び謝金として、原告岩瀬は三九三万円、原告坂本は三一八万円(損害額の一五パーセント、万未満の端数切捨)をそれぞれ支払う旨約した。

7  よつて、被告らに対し、不法行為による損害賠償請求権に基づき、原告岩瀬は金三〇一八万円、原告坂本は金二四四三万円及びこれらに対する不法行為の日の後の日である被告佐野、同吉益、同塚本については昭和五一年一〇月二三日、被告国については昭和五一年一一月一一日から各支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の連帯支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2の事実は認める。

3  同3について

(一) (一)の事実について

(1) (1)の事実は否認する。

抗痙攣剤の使用が強化されたのは一二月一九日であり、一六日の発作は大発作ではなく、また二七日の発作は大発作ではなくレノックス発作である。

(2) (2)の事実のうち、一仁が原告ら主張の日に被告吉益の指示により退院したことは認め、その余は否認する。

一仁は、退院時、歩行可能であり、食事、会話も普通で、軽快退院している。

(3) (3)の事実のうち、大発作の回数は不知、その余は認める。

なお、入院時の一仁の状況は、首に脱力発作があり、歩行も不安定で首振り運動があつたので、被告吉益は抗痙攣剤の副作用と考え、その投与量を減少させたが、右症状は軽快しなかつたので、二回目の手術が必要であると判断した。

(4) (4)の事実は否認する。

(5) (5)の事実は認める。

(6) (6)の事実は否認する。

一仁の退院時の症状は以下のとおりであつた。

意識、言語とも障害はなく、大発作は一応おさまつており運動障害はなく歩行可能であつた。筋緊張の低下及び失調症があつたが、これは抗痙攣剤であるヒダントイン系薬物の大量投与による副作用である。

(7) (7)の事実は認める。

ただし、一仁が歯肉増殖、舌根沈下により食事の摂取困難となつたのは数年後である。

(二) (二)の事実は否認する。

一仁の全身衰弱は、歯肉増殖による摂食不能及び小脳失調による運動・言語の各障害によるものであるが、これらは一仁の原疾患であり、難治性てんかんの中でも最も難治で予後不良といわれているレノックス症候群の自然進行と、これに対する治療としてやむなく長期間投与されたヒダントイン系薬物の副作用によるものであつて、本件手術とは無関係のものである。

4  同4について

(一) (一)の冒頭の事実は否認する。

(1) (1)は争う。

視床内髄板は、てんかんのインパルスの通過路であるのみならず、異常波が増強されて脳全体に広がること(全汎化)に関与しているといわれており、てんかんの発作を抑制するのに最も効果的な破壊部位であると考えられる。

視床内髄板に対する定位脳手術において多彩な合併症を呈した報告はなく、視床内髄板は定位脳手術中でも最も安全な手術部位である。

難治性てんかんに対する視床内髄板破壊術は、一九四八年に米国のシュピーゲルとワイシスによつて最初に実施され、一九六七年に米国のミュラン、一九六九年にフランスのペルチュイゼその他によりその有効性・安全性が報告されており、その後もラマムルチ、越野らの報告があり、全汎性難治性てんかんに対する定位脳手術の適応は医学界の定説となつている。

てんかんに対する定位脳手術は、東大脳外科において、本件手術以前に四例を経験しているのみであるが、全世界では最近五年間で五〇〇例以上の報告がある。なお、東大脳外科における四例は、いずれもてんかん発作の程度及び頻度に改善がみられ、悪化ないし特別の副作用はみられなかつた。

(2) (2)の事実のうち、一仁の受診が分院の安永医師の脳の器質的疾患の有無を検査するためであつたこと、第一回の手術前に同医師に直接一仁の発作の回数等を問い合わせなかつたこと及び検査の結果を連絡しなかつたことは認めるが、その余は否認する。

被告佐野は、昭和四三年一一月二五日、一仁の臨床経過からみて定位脳手術の適応の可能性があると判断し、必要な検査を指示したものにすぎない。

(3) (3)の事実のうち、原告主張の日にラミナーアナリシスが実施されたこと、第二回手術に約六時間を要したこと、被告吉益が原告主張の論文を発表したことは認めるが、その余は否認する。

ラミナーアナリシスの際の麻酔時間は六時間一五分であるが、実質的な検査に要した時間は約一時間三〇分であり、それ以外の時間は準備や附随的な脳皮上脳波記録に約一時間、穿頭術と電極の装着に約一時間、麻酔深度の調節に約二時間を要したものである。

第一回手術の手術時間は七時間五分であり、定位脳手術に長時間を要したのは、目標位置確認のためのレントゲン撮影の際のレントゲンフィルムの現像に長時間を要したためである。

なお、被告吉益が発表した論文は頑痛症に関するものであつて、てんかんについてのものではない。

(二) (二)の冒頭の事実は否認する。

(1) (1)は認める。

(2) (2)の事実について

(ア) (ア)の事実のうち、梅ケ丘病院に通院していたころの大発作の回数は不知、そのころ大発作が抑制されていたことは否認し、その余の事実は認める。

ただし、一仁の小発作は、純粋小発作ではなく、マイナー・シージャー(今日いうレノックス症候群の一特徴とされる「非定型的てんかん欠神発作並びに全身性・部分性の間代性強直性痙攣発作」、以下「レノックス発作」という。)であつた。

原告主張のこの三回の発作はいずれも抗痙攣剤を服用していたにもかかわらず起こつたものであり、しかも、レノックス発作の回数は全体に増加傾向にあつた。

(イ) (イ)の事実は認める。

ただし、安永医師の紹介状によれば、一仁は精神薄弱を伴つたてんかんで、抗てんかん剤の服用によつても発作を抑制できない難治性てんかんであるとされていた。

(ウ) (ウ)の事実のうち、一仁が抗痙攣剤の服用を中止したことは不知、その余は認める。

(エ) (エ)の事実のうち、一仁が退院後薬物療法を続け、小発作も少なくなり症状が安定していたこと、昭和四四年七月に二回大発作を起こしたことは認め、その余は不知。

(オ) (オ)の事実は認める。

(3) (3)は争う。

一仁は、本件手術のころ、抗痙攣剤の大量服用にもかかわらず、大発作及びレノックス発作が頻発する病態であり、投薬量のこれ以上の増加は副作用の点から好ましくなく、反面これを放置すれば発作により脳の器質的損傷を起こす危険性があつたし、現に手術前の一年間に脳萎縮も進行していたのであるから、投薬(できれば減量された投薬量)による発作の抑止を可能とするため、本件手術を実施すべき緊急の必要性があつた。

(三) (三)の事実は否認する。

仮に手術による破壊部位が原告ら主張のとおりであるとしても、破壊された部位は目標とした視床内髄板に殆ど一致しており、その際、隣接している核の極く一部が破壊されているにすぎない。視床内髄板を頭蓋外から定位的に手術を行うには、周囲近傍の核の一部が含まれるのは通常で、副作用はない。なお、内側枕核は電極の刺入方向にあるので電極が通り、このため手術創ができるのは当然である。本件手術による破壊巣は、大きさ部位とも必要最小限のもので、手術による過誤はない。

出血については、血腫が生じられた場合にみられるべき頭蓋内圧充進症状、意識障害、麻卑等の症状が臨床経過には全くあらわれていないし、また、破壊巣へのヘモジデリンの沈着は、手術の際の電気凝固により当然生ずるものである。

(四) (四)の事実は否認する。

被告吉益は、昭和四四年一一月二七日一仁が入院する際、原告岩瀬に対し、一仁は投薬治療では発作を抑えきれず、ラミナーアナリシスの結果によつては手術が必要であること、手術は両側に行うこと、治癒率は約五〇パーセントであることを説明し、その承諾を得た。さらに、被告吉益は、ラミナーアナリシスの結果、手術の適応が認められまので、昭和四四年一二月九日ころ、原告岩瀬に対し、電話で病状と手術の説明をしたうえで、とりあえず左側に手術を実施し、様子をみてから右側に手術を実施することも考慮する旨説明し、再度その承諾を確認した。また、昭和四五年一月初め、被告吉益は原告岩瀬から電話で一仁の様子を聞き、反対側の手術が必要であると判断し、このことを同人に話したところ納得し、第二回手術のため入院したものである。

5  同5は争う。

6  同6は争う。

第三  証拠〈省略〉

理由

一請求原因1(当事者)及び2(本件手術の実施)の事実はいずれも当事者間に争いがない。

二そこで、本件手術の違法性について判断する。

1  原告らの、本件手術は治療を目的としたものではなく、実験を目的としたものである旨の主張につき判断する。

(一)  〈証拠〉によれば、以下の事実が認められる。

(1) てんかんの定義については様々の論があるが、「発作性脳律動異常を呈する一つの脳疾患」(レノックス)であつて、その成因、機序については、生理学、病理学的に充分な解明がなされていない。しかし、脳波研究の発達により、脳波上あらわれるてんかんのインパルス(異常な電気的な波)と臨床上のてんかん発作との関係を研究することによつて、てんかん患者にはてんかんの源となる局限性の障害部位(てんかん焦点)があると考えられるようになつた。てんかんの分類・成因等については種々の理論があり必ずしも定まつていないが、有力な説は、てんかんを焦点性てんかん(脳波上の初期変化の現れる部位のあるもの)と、全汎性てんかん(脳波上、左右の大脳半球全体に広く同時的な変化のおきるもの)とに分類した。そして、全汎性てんかんの焦点については、焦点は間脳及び脳幹にあり、てんかんのインパルスはここから間脳の一部である視床内髄板を通過して大脳皮質に広がるとの考えや、視床内髄板が焦点であるとの考えがなされ、さらに焦点が脳の他の場所にあつてもてんかんのインパルスは視床内髄板を経由して脳に全汎化するものであるから視床内髄板がてんかんの発作に関与しているとの考えもなされるようになつた。

(2) てんかん患者は、重症、殊にてんかん重積症に陥つた場合は、てんかんの発作により生命の危険があり、また発作が継続することで脳の器質的損傷が進むので放置できず、医師による治療を必要とするが、てんかん患者に対する治療としては、まず薬物による発作の抑制ないし消去を目的とする薬物療法を試みるのが通例で、右療法は対象患者の病歴・症状に応じて抗てんかん剤の種類と量をある程度試行錯誤的に選択・調節して服用させるものであり、この薬物療法によつて大部分のてんかん患者の発作を抑制することが可能であるといわれている。薬物療法は、種類と量と患者の状態にもよるが、薬物を長期間投与することにより、多かれ少なかれ副作用を生じ、殊にヒダントイン系の薬物では歯肉増殖、多毛、発疹などのほか小脳変性による運動障害を起こすなど、多彩な副作用が生じ、予後の不良な場合もあつて必ずしも好ましいものではないし、またいわゆる難治性てんかん患者(約一〇パーセント前後)の薬物による治療は無効ないし不可能であるといわれている。このことから、薬物療法によることのできない難治性てんかん患者に対しては、てんかん発作を抑制したり投薬量を減少させるため、脳について外科手術による治療法が提唱されるようになつた。

(3) 大略、てんかんに対する脳外科的治療としては、一八八六年にホースレイが外傷性てんかん患老の大脳皮質の瘢痕を切除することにより発作をおさめるのに成功したことに始まる。そして、その後、てんかんの焦点という考えがなされるようになつてからは、焦点性てんかんについては焦点の切除が行われるようになつた。これに対して、全汎性てんかんについては、てんかんのインパルスが大脳皮質全体に広がつてゆく経路を遮断することによりてんかん発作を抑制することができるのではないかと考えられるようになり、てんかんのインパルスの経路であり、その全汎化に関与していると考えられる視床内髄板の破壊が考えられ、一九四七年にシュピーゲルとワイシスにより初めて実施された。なお、右経路としては、視床内髄板の他、フォレルーH野、扁桃核、脳弓などの部位が考えられ、これを破壊することによるべきだとの説もある。

右手術は、視床内髄板その他の破壊の目標とされる部位が、脳の深部に存する極めて小さな部位であるため、定位脳手術といわれる方法により行われるが、これは頭蓋骨に小さな穴を開け、脳内の目標点に向けて太さ0.5ないし一ミリメートルの細い針を脳に刺し、できる限り目標以外の他の部位を損うことなく、正確に目標点に到達させ、針の先端の電極により、当該部位を必要にして充分な範囲で選択的に破壊するという方法が用いられる。

(4) 本件手術の前後ころまでに、てんかん患者に対する定位脳手術については、次のような報告がなされていた。

(ア) シュピーゲルとワイシスは、一九四八年ころ、薬物による療法が無効で、小発作に視床が関与していると考えられるてんかん患者について、定位脳手術による視床内髄板等の破壊を六例行い、三例は変化なく、二例につき小発作の回数が一時的に減少し、残る一例は小発作の軽減、回数の減少、投薬量の減少が一一年以上続いた(「生物学と医学の書」一九六二年)。

(イ) ミュランは、薬物療法では治療が困難なてんかん患者について、定位脳手術による視床破壊術を九例行つたが、六例につき改善がみられ、一例に半身麻痺の合併症を起こしたが、他に知能・身体障害を起こした例はなく、またてんかんが増悪した例もなかつた(「てんかん抑制のための視床破壊術九例の検討」一九六七年)。

(ウ) ペルチュイゼは、薬物療法によつて難治な重症全身性てんかん患者につき、一〇例、定位脳手術による視床内髄板破壊術を行つたところ、応例数は充分ではないが、臨床的にかなりの期待をもたらす結果を得た(「大発作てんかんに対する選択的視床破壊術」一九六九年)。

(エ) ラマムルチは、種々の疾患について正中中心核破壊術八九例を実施し、そのうちミオクローヌスてんかんの六例(四例が一〇才以下、二例が一一ないし二〇才)については、五例に術直後の効果がみられ、うち四例に持続する効果が認められた(「神経学提要」一九七五年)。

(オ) 越野健太郎らは、一ないし一六才の内科的治療の無効な難治てんかん患者一三例について、定位脳手術による正中中心核、視床腹側核等の破壊術を実施したが、術後数日して、徐々にてんかん発作の頻度、持続時間、強さの減少がみられ、手術の副作用は全くみられなかつた(「小児てんかんとそれに伴つた行動異常に対する定位脳手術」一九七三年)。

(カ) バラスブラマニアンとカナカは、一九六四年以降、てんかん患者に対し、定位脳手術により、二六〇例の扁桃核破壊術、五四例の視床下部破壊術、五例の視床内髄板破壊術、五例の正中中心核破壊術を実施した。そのうち、経過観察を行つた一〇七例中、七六例につき発作の減少がみられ、視床内髄板の破壊により発作が完全に止つたものが四例みられた(「てんかんに対する大脳辺縁系の定位脳手術」脳神経外科要補遺二三、一九七六年)。

(5) 被告佐野は、昭和四三・四年ころ、東大脳外科の教授・科長であり、被告吉益、同塚本はいずれもこれに所属する助手・医師で、定位脳手術を行ういわゆるステレオグループであつたが、東大脳外科においては、難治性てんかんに対する定位脳手術による視床内髄板破壊術を、本件手術以前に三例、以後に一例実施したが、結果は効果の見られなかつたものが一例で、他の三例は発作が減少し、特別な合併症を示した例はなかつたし、また、視床内髄板はガン末期などに生じる頑痛症の痛みの経路であると考えられていたので痛みを緩和する目的で、てんかんの場合と同じ方法でする視床内髄板破壊術を本件手術のころまでに八〇例以上実施していたが、副作用、合併症を呈した例はなかつた。

(6) なお、本件手術が行われた昭和四四年の夏ころ、被告佐野は、ニューヨークで開催された国際学会に出席したが、その学会でペルチュイゼが難治性てんかん患者に対して視床内髄板破壊術を実施したところ有効であつたことを発表しており、また、同席した同学会副会長のラマムルチ教授から、小児の同様な患者に視床内髄板破壊術を行つて非常に効果があつたことを聞いていた。

(二) 以上の事実によれ、当時てんかん患者に対する治療は、まず薬物による発作の抑制を目的とする療法が行われるが、薬物療法では効果がない難治性てんかん患者については、脳の外科手術による療法も必要であるといわれ研究・実施されていたが、てんかんの病理については、未だ十分解明されていないため、手術の方法・部位等について確立した定説がなく、定位脳手術による視床内髄板破壊術は、これによるてんかん発作抑制の機序も充分に解明されているとはいい難い。しかし、手術による効果の点で、視床内髄板破壊術によつて、相当の割合の難治性てんかん患者についててんかん発作の軽減・治癒がみられることが本件手術当時までに報告されており、また、本件手術後にも同種の手術が一貫して今日まで相当数実施されてきており、さらに右手術法による障害の点についてもてんかんの発作が増悪した例は全くなく、合併症を起こす率も低く、その安全性は確認されていた。

右のことからすれば、本件手術当時においても、薬物療法によつて難治であり、予後の不良が予想されるてんかん患者に対し、医師としてこれを試みることは許容される範囲内の治療行為であつたものと解すべきである。

したがつて、てんかんに対する定位脳手術が医学界において確立していない極めて危険な手術であり、したがつて本件手術は人体実験を目的とするものである旨の原告の主張は採用し難い。

(三)  また、原告らは、被告佐野が、一仁に主要な検査が実施される以前の昭和四三年一一月二五日にすでに定位脳手術適応と診断し、本件手術の実施を決定したことは、本件手術が治療を目的としたものではなく実験を目的としたものであることを示すものである旨主張し、乙第一号証の二には同日、「教授回診・コントロール不能のてんかんで定位脳手術の適応・明日気脳撮影、頸動脈撮影」との記載があるが、被告佐野本人尋問の結果によれば、同被告は同日の教授回診の際、受持の斉藤勇医師から一仁の病歴等を聞き、定位脳手術の適応が考えられるので検査を指示し、これを斉藤医師が右のように記載したものと認められるから、右の記載をもつて直ちに原告らの右主張事実を認める資料とはなし得ず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

(四)  さらに、原告らは、ラミナーアナリシス及び本件手術に長時間を要したり、被告吉益が定位脳手術の論文を発表しているのは手術とは無関係の実験が行われた証左である旨主張するが、右検査及び手術に長時間を要したからといつて、そのことから直ちにその間の実験が行われたと推認することはできないばかりでなくその主張を認めるに足る証拠もない。また、成立に争いのない乙第三号証によれば、被告吉益が昭和四七年に発表した「定位脳手術よりみた視床内髄板の機能解剖」と題する論文は、専ら頑痛症に対する定位脳手術を論じたものであつて、てんかんに関するものではないことが認められるから、被告吉益が右論文を発表したことをもつて右主張事実を推認し得ないことは明らかである。

(五)  以上各判示したとおり、本件手術が実験目的の手術である旨の原告らの主張は認め難く、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

2  次に、原告らの、本件手術には手術適応の判断に誤りがあつた旨の主張につき判断する。

(一)  〈証拠〉に請求原因4(二)(2)中の当事者間に争いのない事実を総合すれば、以下の事実が認められる。

(1) 一仁は、昭和三三年六月五日、原告両名の子として生まれたが、五才のころから同年令の他の子供に比べて言葉づかいが子供つぽく、ものの順番がわからないなど知能の遅れがみられるようになり、昭和四〇年四月に東京都豊島区立日出小学校に入学したが、二学期からは同区立大塚台小学校特殊学級に編入された。

(2) 一仁は、昭和四一年二月ころから、またたくように目をパチパチさせたり、ふわつと後方へ倒れそうになつたり、食事中に箸や茶椀を落とすなどの小発作が始まり、右大塚台小学校の先生から診察してもらうよう勧められ、昭和四二年一月一九日、東京都立梅ケ丘病院において脳波検査を受けたところ、脳波に異常が認められ、てんかん、精神薄弱と診断され、同年三月一〇日から投薬治療を受けるようになつた。その後も、目をつぶつて後方に倒れそうになる、足がもつれるなどの発作も起きており、発作は減少した時期もあつたが、なお継続していた。

同年一一月一七日、一仁は脳波検査を受けたところ、三サイクルを主とする棘徐波結合が頻発しており、殆どてんかん重積症の状態で、発作間期も徐波群発で占められ、小発作も頻発しているので、早急に薬量の調節を要するものと診断された。

(3) 一仁は、同年一一月二三日、初めて大発作を起こした。そして、その後、小発作の回数の減少した時期もあつたが、目をつぶつて後方に倒れそうになる、瞬間的にぼんやりする、歩いていると立ち止まる、倒れるなどの発作が多いときには一日数十回起こつていた。また、昭和四三年三月ころからは、薬物の副作用のため歯肉増殖がみられるようになつた。

一仁は、昭和四三年八月二九日に再び大発作を起こし、そのため同日から九月四日まで梅ケ丘病院に入院したが、さらに九月一八日にも大発作を起こした。そこで、原告岩瀬は発作が増加していくのを心配して精密検査を希望し、梅ケ丘病院の五十嵐医師から自宅から近くて信頼のできる分院の紹介を受けたが、その際の紹介状には、昭和四二年一月一九日が初診で、てんかん発作はどんどん増加し、昭和四三年八月二九日にはてんかん重積症となり、精密検査を希望している旨記載されていた。

(4) 分院の安永浩医師は、昭和四三年九月一九日、前記梅ケ丘病院の紹介状に基づいて一仁を診察したところ、病名と症状は梅ケ丘病院の所見とほぼ同一で難治性のてんかんと判断した。しかし、頭蓋単純エックス線撮影写真に疑問影があつたがその撮影条件が悪く、また脳に腫瘍等の損傷の可能性も考えられたため、より精密な検査と診断が必要であると判断したので、同医師は専門的知識と経験の豊富な医師が多く勤務し、かつ設備の整つている東大脳外科に検査を依頼することとし、同月二一日、東大脳外科に対する紹介状を原告岩瀬に渡した。安永医師は右紹介状に、一仁は精神薄弱を伴つたてんかんであると診断し、七才ころから小発作が頻発し、九才から大発作も起こるようになり、なかなか抑制できない難治性てんかんとして都立梅ケ丘病院から紹介され、精密検査を希望してきたケースであること、頭蓋単純エックス線撮影で疑問影があり精密検査を依頼したいこと、血清化学検査、眼底検査には異常がなく、脳波検査は行つていないこと、及び従来の投薬の内容と、九月一九日からこれに追加してダイアモックスニ五〇ミリグラムを処方したところ小発作は減少したようにみえるとのことであること、脳外科での問題のないときには分院で治療を続けたい旨を記載した。

(5) 一仁は、同月二五日、東大脳外科の外来診察で受診し、一〇月二日に脳波検査を行うことを予定され、そのために九月二九日から抗痙攣剤の服用を中止したところ、翌三〇日、大発作を起こした。そして、一〇月二日の脳波検査の結果、四ないし六サイクルの全汎性シータ波が優勢で、三サイクルの棘徐波結合が頻発していることが判明した。ところが、気脳撮影検査の際、一仁があばれて検査することができなかつたため、改めて入院のうえ、全身麻酔で行うこととされた。

(6) 一仁は、気脳撮影検査のため、同年一一月二一日、東大脳外科に入院した。その際、斉藤勇医師が受持医とされ、同医師は原告岩瀬から一仁の病歴等を聴取した。そして、一仁は脳波検査のため服薬を中止したところ、同月二三日、二四日に大発作を起こした。同月二五日には脳波検査が行われ、また、同日の教授回診時、被告佐野は、斉藤医師から病歴を聞き、脳波を示されたうえで、定位脳手術の適応が考えられるので翌日気脳撮影、頸動脈撮影を行うよう指示を与えた。

翌二六日、右各検査が行われ、右頸動脈撮影の結果は正常であり、脳には器質的な障害はなかつたが、気脳撮影の結果、脳室が拡大し、脳の萎縮が認められた。しかし、定位脳手術の実施を決定するには、さらにラミナーアナリシスにより精密な脳波検査を行うことが必要であつたが、これに用いる機械が当時の大学紛争によつて使用することができなかつたり、あるいは故障しており、検査ができるのは先になつてしまうので、原告岩瀬の希望により、右検査は後日改めて入院して行うこととし、一仁は同年一二月三日退院した。

(7) 一仁は、昭和四三年一二月三日の退院後引き続き分院の投薬治療を受けていたが翌四四年三月まで大塚台小学校特殊学級を欠席し、第五学年に進級した四月以降は大体出席していたが、五月九日に実施された遠足には参加できず、また同月二二日から二四日までの移動教室には参加したが、小発作が連続して起こり、失禁もするなどの状態で、担当の教諭も一仁には常に注意を払つていなければ危険を感じるほどであつた。そして一仁は、同年七月一四日から一六日までの林間学校には参加したが、そのころ抗痙攣剤のアクセノンが吸湿性で包紙についたため服用しなかつたところ、同月一九日、二一日に大発作を起こした。このように、大発作については相当抑制されていたが、小発作は時期によつて回数の増減はあつたものの、昭和四一年頃に比べると頻繁にみられる状態であつた。そのため、原告岩瀬は東大脳外科において未了であつた検査を受けようと考え、七月二八日、東大脳外科の外来を訪れ、入院を申し込んだ。その際、担当の真柳昭佳医師は、投薬にもかかわらず発作が抑制されていないことから、定位脳手術の適応があるのではないかと考え、病室予約の手続をとり、被告吉益、同塚本らの定位脳手術を行う医師らに原告岩瀬が一仁の入院予約をしたことと一仁の病状等を話した。東大脳外科においては、当時多数の入院希望患者がいたため、予約から入院まで相当期間待たなければならないのが通例で、原告岩瀬は昭和四四年一一月二七日入院するよう連絡を受け、同日一仁を入院させた。

(8) 一仁が昭和四四年一一月二七日、東大脳外科に入院した際、被告吉益が受持医となつた。同被告は原告岩瀬から、一仁の病歴について、七才から瞬間的に意識を消失し、目をつぶつて頭が後方へ行くようになつたこと、梅ケ丘病院で投薬を受けるようになつたが、一〇か月後に強直性間代性痙攣発作を起こしたこと、その後全身痙攣発作、小発作とも回数が増えたこと、昭和四三年九月から分院に受診して投薬を受けているが、発作の回数は変わらず、学校成績が低下してきていること、昭和四三年九月一九日に東大脳外科外来に受診し、同年一一月二一日には入院のうえ検査を受けたこと、最近は発作の回数は減り、大発作は最近なく、小発作は軽くなつたが、一日数十回あり、瞬間ふらふらして本人も自覚があり、また呼びかけても答えないことがあること、などを聴取した。

(9) 被告吉益は、一仁が二年半にもおよぶ投薬治療にもかかわらず発作が十分に抑制できず。依然として一日数十回もの小発作がみられ、また前回入院の際の検査の結果によれば、脳に器質的な異常はなく、脳室拡大が認められて脳の萎縮を示していることなどから、定位脳手術が必要ではないかと考え、外来で担当した真柳医師にも相談のうえその賛同を得て、脳波検査とラミナーアナリシスを実施して最終的に適応を調べたうえで定位脳手術の実施の可否を決することとした。

(10) 同月二九日には脳波検査が行われ、その結果一仁の脳波にははつきりした左右差はなく、基礎律動は不規則な四ないし七サイクルで二ないし三サイクルの棘徐波結合が3.4個群発状にみられ、時に多発性棘徐波結合もあり、難治性のてんかん発作の特徴をもつていることが判明した。

さらに、同年一二月二日には、ラミナーアナリシスが実施され、大脳皮質内の脳波を検査した結果、てんかんのインパルスが脳の深部に由来するものであることが確認された。

(11) 以上の検査の結果、被告吉益は、一仁が長期にわたる薬物療法にもかかわらず一日数十回もの小発作があること、知能障害が進行しており軽い神経症状もみられたこと、脳の萎縮が認められたこと、脳波の基礎波が不規則で、徐波が多く、脳の障害を示していると考えられたこと、大発作は相当に抑制されていたけれども、投薬量が多く、歯肉増殖等の副作用が現に発生しており投薬量を減少させる必要があつたこと、などから従来の薬物療法では治療の効果がなく、脳の外科手術が必要であり、またその適応症状の患者であると診断できたので、これまでに三例実施し一応効果があると考えていた定位脳手術による視床内髄板破壊術を実施するのが一仁に対する適切な治療行為であると判断し、同月三日の教授回診の際、被告佐野にこの旨報告し、同被告もこれを承認し、本件手術の実施が決定された。

(二) また、〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

(1) 本件手術当時、小発作については、純粋小発作と異型小発作との二つの型があることが知られていた。すなわち、ギブス、レノックスらは、純粋小発作が脳波上殆ど正常の基礎波のうえに突然三サイクルの棘徐波結合が現れるのに対し、異常な基礎波のうえに三サイクルよりも遅い棘徐波結合が現れる脳波を異型小発作と定義し、純粋小発作と別のものとした。そしてこの両者は臨床上の症状の相違もあり、また精神薄弱を伴うことが純粋小発作では稀なのに対し、異型小発作では高率にみられ、さらに異型小発作は難治であり、予後は一般的に他のてんかんの型より悪いとされていた。

ガストーは、これらの脳波上の特徴に基づく異型小発作の概念を、臨床症状の特徴と結びつけた研究を行い、これをまとめて一九六二年、レノックス症候群と呼ぶことを提案し、その後、レノックス・ガストー症候群とも呼ばれるようになり、わが国においても、本件手術後、右呼称が一般化するようになつた。

なお、今日、レノックス・ガストー症候群とは、脳波上、広汎性遅棘徐波結合を認め、臨床上、短い強直性発作及び非定型的欠神発作その他の小発作を伴い、多くは精神薄弱を合併するてんかんの特殊型とされ、幼児期に多く発現し、難治性てんかんの過半数を占め、その予後は一般に不良であるといわれており、大田原俊輔らの研究によれば、一一六例の三年以上の追跡調査の結果、61.2パーセントに発作の残存がみられ、四四パーセンーが重度の心身障害となつたものとされ(「Lennox 症候群の予後にかんする研究」昭和五二年)、マーカンドの研究によれば、八三例のうち五九パーセントに明らかな運動障害がみられた(「脳波上の低周波数の棘徐波結合と随伴する臨床症状・いわゆるレノックス又はレノックス・ガストー症候群」昭和五二年)などとされている。

(2) 昭和四四年一一月二九日の脳波検査の結果では、一仁の脳波は常に異常で、二ないし三サイクルの棘徐波結合がみられ、基礎律動は四ないし七サイクルで不規則であるなど、脳波上異型小発作(今日いわゆるレノックス症候群)の特徴と一致するほか、精神薄弱や運動障害を伴つている等臨床上の異型小発作の特徴をも具有していた。

(三) 以上各認定の事実に基づいて、原告らの前記の主張について判断する。

原告らは、一仁のてんかん発作は、分院における投薬治療によつて日常生活に支障のない程度に抑制されていた旨主張するが、前記(一)において認定した事実によれば、一仁は昭和四二年三月一〇日梅ケ丘病院で投薬治療を受け始めて以来本件手術に至るまで、二年八か月余りの間、同病院及び分院において薬物療法を続けてきており、その間大発作も起こるようになつたが、大発作についてはその後は相当に抑制されていたものの、小発作については、頻度の減少した時期もあつたけれども本件手術直前ころには一日数十回起こつており、また分院での投薬治療の間も学校を長期欠席し、出席するようになつても学校においては教諭が相当注意を払つていなければ危険を感じるような状態であり、また脳波上でも臨床上でも異型発作の特徴と一致する難治性のてんかん患者であるから、一仁には本件手術を実施する適応状態になかつた旨の原告らの主張は到底採用することができず、他に右主張を認めるに足りる証拠はない。

3  次に、本件手術の方法に誤りがあつた旨の原告らの主張につき判断する。

(一)  〈証拠〉によれば、一仁の死亡した翌日一仁の主治医である小島武医師から東京大学医学部病理学教室に対し解剖の依頼があつて病理解剖が実施されたこと、右解剖は小島医師の立合と資料提供の下で、当日の当番医師の志賀淳治と神経病理学を専門とする長嶋和郎医師により行われ、その際取り出された脳を固定してまず顕微鏡標本を作り、これを調査、検討した結果について原稿を作成し、これに最終的なチェックを行つた浦野助教授と三名の連名で病理解剖報告書としたことが認められ、右病理解剖報告書には、右側視床内髄板破壊術後の状態として、右視床に大きさ0.8×0.3×1.4セソチメートルの嚢胞状、非反応性の破壊巣があり、内腹側核の二分の一、後内腹側核の三分の一、背内側核の二分の一、束旁核の二分の一、正中中心核の二分の一、内側枕核の三分の一、中心旁全部、外側中心核の全部が破壊され、その破壊が上丘周辺の上部中脳まで拡がつている旨、左側視床内髄板破壊術後の状態として、左視床に大きさ0.5×1.8×1.4センチメートルの嚢胞状、出血性の破壊巣があり、内側枕核の三分の二、後外側核の二分の一、後外腹側核の三分の一、束旁核の三分の一、正中中心核の全部、外側中心核の全部、中心旁核の全部が破壊されている旨の記載がある。

(二)  ところで、〈証拠〉及び鑑定の結果に請求原因3(一)中の当事者間に争いのない事実を総合すれば、一仁の本件手術後の病状・心身状態は以下のとおりであることが認められる。

(1) 昭和四三年一二月一一日、一仁は全身麻酔により左視床内髄板破壊の手術を受け、午後五時二〇分ころ帰室し、酸素吸入を受けたところ、午後七時には目を覚ました。同月一四日は発作はなく、落ち着いてよく言うことを聞き、意識清明で応答のよい状態であつたが、同月一九日朝、大発作を起こした。そのため、被告医師らは一九日からはヒダントールF(抗痙攣剤)を一日九錠から一二錠に増量した。しかし、同日行われた脳波検査の結果では手術前とあまり変化はみられなかつたので近く退院できる予定であつたところ、同月二一日朝、一仁が再び大発作を起こしたため、予定されていた退院は延期された。

その後の一仁の状態は、大発作はなく、目をパチパチしたり、首を少しゆすつたり、瞬間的に欠神するなどの症状が残つており、瞳孔不同(右側が大きい)がみられた。

被告吉益は、一仁の発作が、臨床上も脳波上も手術前と変化がみられなかつたため、右側の手術をも行う必要があると判断し、これを翌年行うこととし、一仁は同月三〇日、一旦退院した。

(2) ところが、一仁は昭和四五年一月三日に大発作を起こしたため、原告岩瀬は同日東大脳外科に電話連絡したところ、被告吉益から同月八日に入院するよう指示を受け、一仁は同日入院した。一仁は、入院時、抗痙攣剤の副作用のためか一人で歩いて入院したが失調性の歩行のようにみられ、首の脱力発作や同室の人にくつついて動き回るなど、落ち着きのなさがみられた。右のように抗痙攣剤の副作用がみられたため、ヒダントールFを一日九錠に減量したところ、同月一九日には大発作を起こした。

同月二〇日、右側視床内髄板破壊術が実施されたが、一仁は手術後急速に意識を回復し、午後五時二〇分に帰室したが、興奮状態が続き、当夜は大声でしやべり通し眠らなかつたため、鎮静剤の注射を受けて入眠した。

一月二四日は、意識清明で、大発作はなく、目をパチパチすることは減つたが、口をクチャクチャかむ動作がみられ、多弁で幼稚なことから生意気なことまで常に話しており、手術前よりも落ち着きのなさがみられる状態であつた。

一月末頃、一仁の受持医となつた被告塚本は、一仁に口をモグモグする動作や落ち着きのなさがみられたため、定位脳手術を受けた患者は手術後一〇日程度で退院するのが通例であるが、さらに経過を観察することとし、退院を延ばしていた。しかし、二月六日には、これも改善されてきたため、一仁を退院させる方針を決め、教授回診においてその許可も得たが、原告岩瀬が来院しなかつたため退院させることができなかつた。

二月一二日頃原告岩瀬が来院したので被告塚本は一仁を退院させて経過をみるよう説明したが、原告岩瀬は自宅では面倒をみきれないので入院を継続したい旨希望したが、被告塚本から他の入院予約患者もいることを説明されて、これを了承し、同月一五日、一仁は退院した。

一仁の退院時の状態は次のとおりであつた。

(ア) 顔貌は無欲情で、意識清明、知能低下については一から三〇まで数えられ、「住所は」の質問には「池袋」と答えられるが、「六足す七は」「ここは何病院」には答えられない。

(イ) 全身痙攣発作はなく、失神発作は手術後一回あり、口をモグモグする、目をパチパチする症状については殆どなくなつたが、首を右に曲げやすい。

(ウ) 運動減弱(筋力低下)はないが、筋緊張低下がみられ、歩行は可能であるが、失調性歩行で、右に倒れることがあり、ロンベルク徴候はなく、拮抗運動反復は両側とも低下している。

(3) 退院後、一仁は、二月一七日、二四日、二五日に大発作を起こした。そこで、被告塚本は、原告岩瀬からの電話連絡により、ヒダントールFを一日一二錠から一五錠に増量するよう指示を与えたが、右増量後、一仁は時に調子のよい日もあるが歩行が不能となり、また小発作も続いた。

そして、一仁は、以後は完全就寝の状態が続き、ヒダントールFの投薬量を減らすと歩行は可能となるが発作が起きるという状態で、歯肉増殖も進んでいつた。

以上の事実が認められ、〈反証排斥略〉、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

(三)  本件手術後の一仁の病状・運動・知覚等の心身状態は前記認定のとおりであるが、これが病理解剖報告書に記載されている一仁の本件手術による脳の破壊に基づくものであるか否かについて検討する。

〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

本件手術は、視床内髄板(正中中心核、束旁核、外側中心核、中心旁核)の破壊を目的としたものであるところ、前記病理解剖報告書によると、視床内髄板の核の全部又は二分の一が破壊されているので、その限度で本件手術は目的と結果が一致し、術者の被告医師らの意図と適合し、方法に誤りがないといえるが、その際、隣接する核の一部に破壊が及んでいる。視床付近が広範囲に侵された場合には意識障害、歩行障害、平衡障害等の生じる可能性があるが、視床内髄板付近の他の部分があまり大きく破壊されないときは、知能及び身体的障害をきたさないとされていて、病理解剖報告書に破壊されたと記載されている視床内髄板以外の部位は感覚機能に関する部位で、記載されている程度の破壊では右の機能障害が起きないばかりでなく、右の部位と範囲の破壊により運動障害が起きることはないと一般にいわれている。また、病理解剖報告書には左視床の破壊巣は出血性である旨の記載があり、これはヘモジデリンの沈着が認められたため手術による破壊の際血腫が生じたものと判断されているけれども、ヘモジデリンの沈着は定位脳手術の際の電気凝固によつても生じるものであり、また通常脳幹部においては直径1.5センチメートル以下の血腫は臨床的に問題とされないものであつて、仮に手術により血腫が生じた場合や広範な部分に破壊が及ぶなどした場合には、通常手術直後に麻痺などの症状が現れ、その後徐々に改善していくものである。そして、前記(二)において認定したとおりの第一回手術後の経過によれば、一仁は昭和四五年二月一五日に退院するまで、脳の広範な破壊や血腫が生じた場合にみられるべき右症状はみられなかつた。

以上認定の事実に徴すると、本件手術により一仁の脳の広範な部位が破壊され、あるいは血腫が生じたものと認めることはできない。

そして、他に本件手術の方法に誤りがあつた旨の原告らの主張を認めるに足りる証拠はない。

4  本件手術は原告岩瀬の同意なしに行われた違法な手術である旨の原告らの主張について判断する。

(一) 原告らは、一仁が昭和四四年一一月二七日に入院する際、原告岩瀬は、前額部に穴をあけて検査する旨の説明をうけこれに同意し、また昭和四五年一月八日の入院の際も、必要最小限の検査に限つて同意したにすぎず、被告医師らの誰からも一仁に本件手術を実施する必要があるとの説明を受けたこともなければ、これに同意したことも一切ない旨主張し、原告岩瀬本人尋問の結果中には右主張にそう部分が存するが、これは後掲各証拠に照らしてたやすく措信し難く、他に右主張を認めるに足りる証拠はない。

かえつて、前記2(一)(8)で認定した事実と〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

一仁が入院した昭和四四年一一月二七日、受持医となつた被告吉益は、原告岩瀬から一仁の病歴等を聴取し、その結果定位脳手術が必要ではないかと判断し、原告岩瀬に対し大要「これ迄の梅ケ丘病院や分院での経過からみると、薬物療法だけでは発作が抑制できないので脳に手術をした方がよいと思われること、手術は頭に穴をあけて細い針を脳の深部に入れ、電気で凝固することによりてんかんの波が広がるのを抑えようとするものであること、しかし一仁の病気がこの手術に適切なものか否か、手術の前に頭に穴を開けて詳しく検査をする必要があること、この検査や病状をみて手術すべぎだとなれば手術は左右両側に行う必要があるが、まず一方にやつて様子をみてその後反対側にも行うこと、治癒率は半分くらいであること」を説明したところ、原告岩瀬はこれを承諾する旨返答した。被告吉益は、当時東大脳外科では手術を実施するにあたり、本人もしくは親権者等から手術に同意する旨の文書による同意書を作成してもらう慣行がなかつたので、原告岩瀬から文書による同意書の提出を求めなかつた。次いで同年一二月三日に最終的に手術の実施が決定されたため、被告吉益は原告岩瀬に手術の実施を再度説明して確認を得るため、一仁の付添婦の村井志万子に対し、母親に来院するよう連絡することを依頼したが、原告岩瀬は仕事が多忙であることを理由に来院しなかつたため、被告吉益は入院時に説明してあることでもあり、電話で説明してもよいと考え、その旨を村井に伝えたところ、同月九日ころ、原告岩瀬から電話があり、被告吉益が穴あけ検査の結果手術の適応が認められたので手術を実施することとなつた旨伝えたところ、原告岩瀬は手術をお願いする旨返答した。さらに、一仁が第一回手術後退院し、昭和四五年一月三日に大発作を起こしたので原告岩瀬が被告吉益に電話連絡した際、被告吉益は原告岩瀬に一方だけの手術では効果もはつきりしないのでもう一方の手術が必要であるから至急一仁を入院させるように告げたところ、原告岩瀬もこれを承諾し、同月八日、一仁を東大脳外科に入院させた。

(二) 右に認定した事実に照らせば、被告吉益は、本件手術を行うにあたり、一仁の母親である原告岩瀬に対し、医師としてなすべき必要にして十分な説明を行い、原告岩瀬はこれを了解して本件手術を実施することに同意したものと認めることができる。

もつとも、〈証拠〉によると、被告吉益は原告岩瀬に本件手術の実施に際し同意の努力が不充分であり、結果として充分同意がなされなかつたことを認め、謝罪する旨の文書を作成し交付していることが認められるが、被告吉益本人尋問の結果によると、右文書は、作成当日、被告吉益が東大医学部学生自治会や一般市民団体の人々と大学において団体交渉という場で本件手術について詰問され、種々弁明したが容易に理解を得られず、夜中まで右のような文書を作成しないと帰さないと難詰され、相手方の意向に従い作成したもので、被告吉益自身の本意でないことが認められるので、右甲第二号証も前記認定を覆すに足りない。

そうすると、本件手術は原告岩瀬の同意なしに行われた違法な手術である旨の原告らの主張もまた採用することができない。

三以上判示したところによれば、本件手術が違法な手術である旨の主張はいずれも採用するに由ないから、その余の主張について判断するまでもなく、原告らの本訴請求は理由がない。

〈以下、省略〉

(岡田潤 萩尾保繁 佐村浩之)

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